武踏


其の八十 其の八十一 其の八十二 其の八十三 其の八十四
其の八十五 其の八十六 其の八十七 其の八十八 其の八十九


其の八十
登場人物 ボクサー 著 煉

「グローブ?」

 水形が身につけていたのは、ボクシング用の6オンスグローブだった。
 無論反則ではないが、明らかにダメージを減らし、攻撃パターンを限定するその装備に観客は戸惑う。

「反則は武器の使用のみ。すなわち、諸君らがこれまでに身につけた全ての技が認められる」

 審判員がいつもの説明をする中、水形は無言でグローブを突き出す。
 それだけで解ったのか、高天も拳を突き出し、軽く叩き合わせる。

 挨拶は済んだ

 審判員の言葉も聞かず、水形がジャブを繰り出す。既にその瞳は赤く輝いている。
 高天はそれを腕で受ける。彼もまた、ボクシングで言うオーソドックススタイルだ。
 水形がジャブで距離を測ってストレートを繰り出す。
 高天は右をかわし、内に入って肘を繰り出す。胸に一撃入れたかと思えば即座に距離を取る。
 軽量級の高天が重量級の水形に接近戦を挑むのは得策ではない。いつかは必ずパワー負けする。相手が格下であれば問題は無いが、今は違う。ボクシングスタイルで挑んできているとは言え、この男もまた咬神流……逆神なのだ。
 兄弟だったはずの男は、咬神流を舐めて掛かって破れた。自分はそんな甘い事はしない。
 ボクシングの弱点である足を、背中を、後頭部を……打つ、打つ、打つ。
 ボクシングのフットワークは厄介だが、軽量級の自分ならそれに対抗できる。ましてここは四角いリングではない。
 強い。それは解る。自分が優勢のはずなのに、それでも確実に当て、その一発一発が意識を刈り取る威力を持っている。

 これは、気力の勝負だ。

 先に諦めた方が、あるいは信念の弱い方が負ける。
 自分は最強になるべくして生まれた。この男は途中で最強になろうとした。
 その差を、見せつけてやる。
 自分は、最強の人間……超人なのだ。


其の八十一
登場人物 皇子 著 煉

 光が、弾けた。

 光が、走った。

 そして散った。

 それは、一瞬の出来事だった。
 臥龍に飛びかかった内の五匹、酒神へ飛び込んだ内の一匹。
 それぞれに常識を超えた命が今、終わりを向かえた。
 その中央に立つ二人は、平然と周囲を見回していた。
 未だ二人を取り囲む神獣達は、数瞬間、動きを止めた。そして

 臥龍が、力強く大地を踏みしめた。静かに燃ゆる瞳で、神獣達を睨む。

 酒神が、そっと腕を伸ばした。優しい殺気の篭る掌で、次に近い神獣の頭を撫でる。

「ジーザス……」

 科学者は、その光景に思わず呟いた。
 『神獣』達が自ら地に膝を付け、頭を垂れる。まるで、主君に仕える騎士のように。
 二人を除く全員が、そこに信じられぬ程の神々しさを感じ取り、ともすれば己も膝を付きそうになる。
 さも当然と言う風に、説明を始める二人の王。

「我流喧嘩術、蛟小流」
「酒神咬神流剣術失伝、閃(セン)」

 ほぼ同時の言葉に、二人は顔を合わせ、苦笑した。そして、先に口を開いたのは酒神。

「同じ人間力で硬度を増しているのであれば、素体がより硬い方が勝つ。単純な理屈だ」

 そう言って酒神は腰の刀を抜き放つ。爪月のように美しく、鋭い刀身が、静かに金色の輝きを示す。
 そして、臥龍が続く。

「どんな生き物も、それが通常の生命をベースにしている限り、僅かに傷をつけただけで確実に命を奪う場所がある。物理的な防御を無効にする小型の臥龍咆哮によって、そこを確実に貫くのがこの技……『蛟小流』の真の姿」

 そう言って臥龍は、地に伏し、二度と起きあがる事の出来なくなった哀れな獣の額を……いや、脳を指差す。

「さて、真実を話して貰おうか?」

 酒神のその言葉に、場の全員が驚愕の表情を浮かべる。
 非合法人体実験を潰すため。そのために魔斗も臥龍もここに居るはずである。魔斗は実験体を元の人間に戻す方法を探るために。そして臥龍は戦闘要員として。そこに詮索すべき情報は存在しない。
 一歩、研究者と酒神の間が詰まる。『神獣』達は既に道を空けている。

「どれ程金をかけた所で、西洋人がこんな短期間で『中国式』をここまで実用化できるはずがない」

 また一歩、間合いが詰まる。

「誰なんだ? お前達に入れ知恵をしたのは」

 酒神は研究者達の中から、一番近い男に手を伸ばす。肩に手をかけられた若い男は、微動だにできない。

「俺がその気になれば、貴様ら程度十秒でミンチに出来る」

 若い男が、我に返ったように無言で酒神を睨んだ……いや、睨もうとした。
 次の瞬間、男の瞳は眼窩から消え失せていた。両方とも。
 誰も、状況を把握できなかった。本人ですら、何故自分の視界が一瞬で闇に包まれたのか、理解できなかった。

「三度目は無い」

 激痛に悲鳴を上げる一瞬前、男の意識は絶たれた。それは、酒神の僅かな慈悲の心である。

「お前達に入れ知恵をしたのは誰だ?」

 静かに、口元に笑顔を浮かべたままの勧告。
 それを見て研究者達は、自分が死神に魅入られた事を理解した。目を閉じれば、自分が死ぬ瞬間の姿、衝撃、苦痛までが明確に頭の中に浮かんでくる。
 数秒間の沈黙。男達が命乞いに口を開きかけ、酒神がもう一歩踏み出した。その時

「久しぶりね。了」

 物陰から、女の声が聞こえた。


其の八十二
登場人物 強かなる者 著 煉

(強い)

 水形京は、純粋に相手を賞賛した。
 ベア・ナックルが当然のこの場で、ボクシンググローブを身に付けて現われた事。それは、素人目には不思議に見て取れたろう。しかし、水形自身には十分に勝算あっての事だった。
 それに気付かせてくれたのは、アンディと呼ばれるあの青年。

『猿真似では勝てない』

 その台詞は屈辱と同時に、水形を納得させた。いや、心の奥で気づいていた事を改めて思い知らされた。
 短期間で咬神流を身につけたとは言え、未だその技術は未熟。咬神流で言う『強化法』を身につけたに過ぎない。ならば、自分はどう戦えば良いのか? その結論は、簡単だった。
 自分が最も長い時間をかけて身につけた技術。それを使えば良い。
 それ即ちボクシング。戦後、最も多くの人間を殺した格闘技。

 ボクシングで使用されるグローブ。一見それは、打撃のダメージを軽減させる安全器具のように見える。だがその実、このグローブこそが、ボクシングの死亡率、障害発生率の高さの原因なのである。
 対象への接触面積を広くする事で、表面的な破壊力は確実に落ちる。だが、掌低打のように衝撃を波と換え、生き物の体内深くまで沈める。
 頭を打てば頭骨ではなく脳に、体を打てば肋骨ではなく内臓に、その衝撃を直接伝える。
 だからこそ、拳で人を殺せるのだ。
 素手で殴れば骨が軋み、砕ける。だが、折れた骨が内臓に突き刺さりでもしない限り人は死なない。目玉を抉っても、目が見えなくなるだけで人は死なない。腕を引き千切っても、出血が少なければ人は死なない。だが、内臓を停止させれば、脳を損傷たらしめれば、いとも簡単に人は死ぬ。
 もう一度言おう。ボクシングで使用されるグローブこそが、ボクシングを『最も多く人が死ぬ格闘技』たらしめる原因なのだ。

 だが、その強かな計算も……目の前の少年が持つ執念には及ばなかったようである。
 渾身の一撃にカウンターを合わされ、一人の天才は……砂に沈んだ。


其の八十三
登場人物 著 煉

「久しぶりね。了」

 物陰から女の声が聞こえた。
 郭斗は、一切の気配を感じなかった。だが驚きはしない。この程度の使い手、彼の棲む世界では当然のように転がっている。
 しかし、郭斗はそれとは違う何かを感じた。

「相変わらず。自分の気に入らない物は壊すのね。子供みたいに……」

 二度目の声で、郭斗は周囲へと視線を巡らせ、行動に移る。思考は後で良い。今解ること、そして、今出来る事を、全力で実行する。それが龍の勤め。
 どう高く見積もっても15は超えてないであろう、声の主である少女。その眼前に金剛の拳が迫る。

「ばぁい」

 音も無く、少女は扉を潜る。郭斗の脇を摺り抜け。
 後には、微動だにしない郭斗と魔斗、小刻みに震える酒神、そして、二度と物言わぬ物体となった、神獣と研究者達が残る。

 パサリと、郭斗の長髪が静かに、地面に広がった。


其の八十四
登場人物 天才より秀才へ 著 煉

 『勝負あり』の宣言は、まだ下りていない。

 水形京vs高天大和

 異例とも言えるボクシングスタイル同士での打ち合い。
 避けようが無い、セオリー道理のワン・ツーや左の変則ジャブ&ストレート。腰の回転を利用した至近距離でのボディブロウ。フットワークを利用してのヒット&アウェイに、体格差を利用したチョッピングライトやアッパー&スマッシュ。
 ボクシングとしては恐ろしいほどオーソドックスな試合が展開されていた。そう、ボクシングとしては……である。
 しかしここは格闘家の聖地、地下闘技場である。ルール無用のリアルファイトが許される空間である。本来は、このような試合展開をする場所では無い。
 また、『総合格闘術』を名乗る高天大和にしてみれば、『ボクシング』を基調とした水形京との拳打戦なぞ、どう見ても不利である。しかしそれでも、高天大和は拳のみで戦った。当然の事ながら、突き技に対し一日の長がある水形が徐々に有利になって行く。
 水形の左のダブルフックの一発目が高天のガードを弾き飛ばし、続く二発目が顎を捉える。脳を揺さぶられ、膝の力が抜ける高天。
 一瞬の勝機を逃すまいと、全体重を乗せた右を打ち下ろす水形。しかし次の瞬間、砂を噛む事になったのは、水形京。
 その瞬間を完全に把握した者は極僅かであった。
 いや、事象を説明するだけならば簡単な事だが……
 水形が打ち下ろした右に対し、高天はスリークオーターの位置から拳を突き上げた。右と右のカウンターが交わされ、直線軌道による僅かな差で、高天の拳が先に突き刺さった。それだけである。
 問題は、この時の高天は顎を打ち抜かれており、ほぼ完全なグロッキー状態だった事である。つまり、無意識状態……いや、脳が生命維持以外の活動をほぼ停止した状態から、彼は拳を突き出したのだ。
 あり得ない状態からの反撃があったと言う事実、それに対する精神的ダメージも含め、水形のダウンは決定的であった。誰が見ても勝負はついた。しかし、高天は構えを崩さない。そのただならぬ気配に、審判員も勝敗の宣言を下せていない。

 そして、高天の判断は間違っていなかった。
 水形は立ちあがり、拳を構えると、咆哮と共に突進し、拳を突き出した。高天は紙一重でそれをかわすと、背後にあった観客席への壁は粉々に砕け散った。
 続けて拳を繰出す水形、その全てが必倒の打撃であり、その速度も人の瞳には捉えられぬ物であった。高天が並の格闘家であればこの一撃で……いや、並の格闘家ならば彼をここまで追い詰める事すら不可能であったろう。それほどの打撃。だが高天は一撃足りとも食らう事は無い。そして

 カカッ

 軽い音と共に、高天の拳が水形の顎とこめかみを捉えた。

「勝負あり!!」

 二人がこの結果を知るのは、これより数時間程後の話となる。


其の八十五
登場人物 ラインハルト・カミヤ&某国軍人&??? 著 煉

「フンッ」

 銀髪の青年は、小さく鼻を鳴らすと、その場を後にした。
 残るは、身動き一つ取れない巨大な猿と、軍服の男。

「コウシンリュウ……これほどとは……」

 アンディは、誰一人として殺しはしなかった。只戦闘力を奪い、その場に放置した。
 殺せるだけの能力を持つモノ同士の戦いにおいて、命を奪わずに居られるのは尋常な事ではない。信じられ無いと思われる方は、銃撃戦を連想して貰うと良い。強大な殺傷能力を持つ銃器と言う武器を扱いつつ人を殺さない事が、どれ程困難であるかは容易に想像出来る事だろう。
 それなのに、アンディは只一つの命も奪う事無く、全ての敵を戦闘不能に陥らせた。それ即ち、彼らの戦力にそれだけの差があったという証明に他ならない。

「神に逆らう力……人を棄てた結果が、あれだと言うのか……」

 指先一つ動かす事の出来ない重症。それで居て、決して命に関る事の無い傷。
 砕けた手足を持ち上げようと、踏み潰された蟻のようにもがきながら、男は先程の光景を反芻する。
 あの時彼らが対峙したのは、文字通り人間ではなかった。姿形を含めて。それはまさに、伝承にある……

「!?」

 そこで、男は思考を一旦中断した。目前に現われた、一人の少女に気がついたためだ。

「貴様は、ユ……」

 言葉が途切れる。
 中断された思考が再開される事は、二度と無かった。

「思った以上に、役立たずね。あの子に喧嘩を売るなんて……」

 砕けた頭蓋を念入りに踏み潰すと、少女は広間を後にした。

「名を棄てても、彼の父は神谷咬神流の直系よ。純血の逆神に、たかが人間が勝てるはず無いのに……」

 少女の後姿は、笑っていた。実に楽しげに。


其の八十六
登場人物 天才達 著 煉

 金髪の男が目一杯蛇口を捻り、洗面台に水を溜める。ある程度まで溜まった所で、左手に掴んだ男の頭を冷水に叩き込む。完璧な銀髪と肌が異物の進入を拒み水滴として弾き返すが、やがて水流に呑まれ絡んで行く。数分もして気泡が上らなくなったのを見計らうと、金髪の男は頭を引っ張り出す。開放された肺が酸素を求め喘ぐが、金髪の男は気にも止めない。
 銀髪の男の呼吸が落ち着いてくるのを見計らうと、金髪の男がタオルを投げ付ける。無言で受け取った銀髪の男は水を止め、ガシガシと乱暴に水滴を拭い始めた。

「落ち付いたか?」

 銀髪の男は答えない。

「アイツは何だったんだ? お前がそんなに取り乱すとは……」
「天才の我輩には大方の想像がついておるがのぅ」

 甲高い老人の声が横槍を入れる。金髪の男が向き直り、銀髪の男はおっくうそうに視線を流す。

「酒神、ヌシはあの娘に見覚えがあるのぢゃろう? それも、只ならぬ仲であった……そうぢゃろう?」

 胸を逸らし、得意げな顔をする老人。その程度の事ならば誰でも気がついていそうだが、酒神と呼ばれた銀髪の男は無言を通す。
 自信過剰な老人は、それを肯定と受け取ったのか、より一層多弁になる。

「これまでのヌシの言動からすれば、あの娘の正体を察するのはそれほど難しくは無い。もっとも、それに気がつけるのも我輩が天才であるが故……ぢゃがな」
「本題に移れ」

 今度は金髪の男が苛立たしげな横槍を入れる。
 老人はやや不機嫌そうな表情をしたが、すぐに言葉を続ける。

「あの娘は既に死んでおるはずの……咬神流で言う"天刺"ではないか?」
「!?」

 金髪の男が椅子を蹴る。

 "天刺"

 咬神流高弟―逆神―が何より優先して抹殺すべきと教え込まれる忌まわしき存在。激戦の後に死した逆神が、その力を神の尖兵として扱われる、彼等にとって何よりも屈辱的な姿。
 この場に居る三人も、つい先日"天刺"と激闘を繰り広げた所である。

「単純な話ぢゃよ。酒神、ヌシはあの時申したな? 『誰なんだ? お前達に入れ知恵したのは』と。それ即ち、ヌシ得意の『奴等』か、はたまた推論かは知らぬが……まぁどちらにせよ、ヌシは『超人計画』には逆神が絡んでおる。そう察しておったのじゃろう?」

 酒神は相変わらず反応を示さない。老人は気を良くした様子で言葉を続ける。

「咬神流の……逆神の力は、門外不出の秘術ぢゃ。ヌシはその裏切り者の……命じられたか自ら名乗り出たかは知らぬが、裏切り者を始末するつもりだったのぢゃろう? 所が、ヌシの予想外の人物が現れた」
「それが何故、"天刺"だと?」

 金髪の男が老人に相槌を入れる。放っておけばこの老人はややこしい理屈だけで、全く本題へ移ろうとしないだろう。

「それも簡単。酒神の取り乱し方を見れば解る。もし生きている人間ならば、驚きはすれど、これ程取り乱したりはすまい。それは郭斗、ヌシの方が良く解っておるぢゃろうに」

 郭斗と呼ばれた金髪の男が頷く。冷静沈着が売りのこの男が取り乱す所など、長らく……いや、一度たりとも見た覚えが無い。
 老人の話にある酒神の目的が真実ならば、相手が生きている人間である限り、誰が出て来た所で酒神は驚きはすまい。咬神流の秘術を伝えられた者は限られているし、酒神はその全てを把握しているはずだ。
 予定外の部分があるとすれば、彼が記憶してない人物……いや、記憶する必要の無い人物となる。

「我輩が知る限り、一度死した人間が何者かに知識を伝えるなどそうあり得る話ではない。ぢゃが、相手が咬神流となれば話は別ぢゃ。逆神には、死した後も動き続ける可能性が存在する」
「なるほどね」

 記憶する必要がなく、尚且つ見知った顔であったが故、酒神は取り乱した。郭斗は頷くと、椅子の背もたれに大きくよりかかった。

(だが、腑に落ちねぇ……)

 大きな違和感。
 魔斗の推論が確かなら、確かに予想外の事態ではあったろう。信じ難い事ではあったろう。だが、それでも酒神があそこまで取り乱すはずがない。その違和感が、郭斗に一つの結論を導き出させた。

(そうか、そう言う事か。だとしたら……)

 無言で魔斗に視線を向ける。老人は頷き、彼が導き出した推論を肯定した。

「あのガキは酒神、テメェがやれ」


其の八十七
登場人物 土佐遼&? 著 でっどうるふ

「基本的な事を、聞こうか」

 先に口を開いたのは、ジジイであった。

「なぜ人は強くなろうとするのか」
「自分の身を守るため……ですか?」

 答えたのは彼の孫にあたる人物……土佐遼である。

「うむ、おそらくその考えは間違いではないのであろう。遼、おまえだって例外ではないだろ」
「私は例外ですよ」

 別に嘘をついたつもりはない。確かに、自分は父親、そして祖父より護身のための術を習った。
 だが、別にいじめられっこだったわけでもないし、教えてくれと頼んだわけではない。
 どちらかといえば、嫌々、無理矢理習わされていたような覚えがある。
 それでもまあ、その技術のおかげで、死なずにすんだ経験がないわけでもないので、親を恨むわけにもいかず、かといってストレートに感謝するにはいささか、自分は素直には、なれない。

「ふむ、ま、いいがのう。では、ここでひとつ、問題が出てくる」
「それは?」
「自分の身を守るのに十分な実力が身についたとして、なぜそれで人は満足しようとしないのか」
「……へ?」
「もっとわかりやすく言えば、じゃ」

 あまりに意外な問いに意表を突かれた遼の顔を、ジジイが覗き込む。

「ケンカが強いってのは、そんなに偉いことなのか、そういうことじゃよ」
「……いえ」

 悩んだ末の回答。

「そんなことは、ないと思います」

 言ってジジイの顔を見据える。

「よろしい。それさえわかっておれば、道を踏み外すことも、あるまい」

 満足げなジジイ。

「ではなぜ、私は……」

 格闘技をやっているのか。それも、師匠は自分の父であり、そして祖父……ほかならぬ、今目の前にいる人物だ。  そう聞こうとしたが、言い終わる前に、ジジイ。

「役にたつからじゃよ、いろいろと」

 明快な答えであった。

「実際、いろいろと役に立ってるじゃろ?」

 反論できなかった。

「道具は多ければ多いほどよいし、うまく使えれば使えるほど、良い。格闘技など、道具と一緒じゃよ」

 言い切った。

「あれば人生は便利になるが、人生全て賭けるべきものじゃ、ないわい」


其の八十八
登場人物 出雲一人&山口狭士 著 でっどうるふ

「よう、出雲ちゃん」
「山口さんか……土佐さんは?」

 出雲一人の控え室。

「いや、俺も知らねえんだ、こっちに来てると思ったんだが」
「……」

 しばしの沈黙。

「対戦相手のジジイ」

 口を開いたのは山口。

「正直、どうだい?」
「……強い。一目で、分かる」

 出雲の口調は淡々としていた。来るべき強敵との戦いに対し、高潮しているでもなく、震えているでもなく。
 いつもの通りの出雲一人に見える。

「私が戦ったあの空手家とは全く違う……捕らえどころがない。あの空手家は嵐であったが、あのご老体は……」
「枯れ木?」

 山口のジョークを無視して。

「……流れる水……のようにも見える、が、その中には一筋通った芯……いや、巌のようなものを感じる」
「なんだそりゃ。俺には何が何だか」
「私にも分からない」

 ふたたび沈黙。

「……で、肝心なことだが……」

 先に言葉を発したのは、やはり、山口。

「勝てるのか?」

「……勝つ」
「おう、言い切った。」
「私の背中には」

 ここではじめて、出雲の表情に、変化らしきものが……ほんのかすかながら、見て取れた。そんな風に、山口には、見えた。

「王龍寺の歴史が背負われている。そして、王殿にレオン殿、両者の魂を、私は背負っている」

「私は、負けない」


其の八十九
登場人物 世界最強のジャーナリスト集団 著 でっどうるふ

 強い。
 ジジイ面相なる男を一目見て、出雲は思った。

 目に見えて、ここが特に強い、そういったものではない。
 例えば自分がつい先刻戦った、あの外国人空手家のような、巌のごとき巨大さもない。
 あの酒神了が、あるいは臥龍郭斗が持つような、氷のごとくの殺気ともまるで無縁である。
 体格も小柄であり、腕は枯れ枝のようであり、簡単に折れてしまうような錯覚すら、覚える。

 では、出雲の目には何が映ったのか?結論を先に言えば、何も映っていない。
 だがそれは、何も見出せなかったのとはまるで違う。「何も映らない」ことが「観えた」のだ。

 戦いの場においては、誰もが何らかの、ある種の反応を示すものだ。
 相手を倒さんとする者が発する、感情の奔流。闘志。熱意。殺意。恐怖。そういったものの複合。人が闘気と呼ぶそれを、一流の格闘家であれ、ケンカに巻き込まれた素人であれ、発するのが普通なのだ。
 顔の表情、筋肉の動き、呼吸、心臓、体全体がその存在を示してくれる。自分が今までに戦った相手は例外なくそうだった。

 それなのに!
 彼の目の前にいる覆面の男。彼はいったいなんなんだ?
 まるで、自分がそこにいるのが当然といったような様子で、ただ立っている。
 完全に、風景と同化してしまっているかのごとくに、そこにただ、たたずんでいる。
 これから目の前の相手と戦う男の様子では、全く無い。

 あまりにも、何も映らない。映らなさすぎた。
 だからこそ、強い。出雲はそう判断した。

「出雲さん……どうすると思います?」

 例のごとく、観客席で試合の様子を見ている、土佐と山口。

「ま、最悪死ぬわけじゃなし」
「……負けるって決まったような口調ですね」

 確かに、山口の発言はあまりに不謹慎であった。なにせ実際この場で、つい今しがた、人がひとり死んでるのだ。

「重くないかの?」

 向かい合っている相手に突然発したジジイの言葉は、出雲の不意をついていた。

「……は?」
「四千年という、年月が、じゃ」

 その内容はさらに不意をつくものであった。

「人間、生きてせいぜい百年、昔は人間五十年。そんな程度しか生きられぬ者が、じゃ」

 淡々と語るジジイ。内容は決して、何気ないことではない。とりわけ、出雲にとっては。

「しかもお前さん、その百年足らずの人生ですら、半分も生きておらぬ。そんな者が、じゃ」
「……何が言いたい?」
「四千年の歴史をひとりで背負い込もうなど、傲慢な考えだとは、思わぬか?」
「王龍寺を出た者は全て、その看板を掲げているに等しい」

 出雲は当然、反論する。

「ならば私の一挙手一動作は全て王龍寺の歴史を映すものだ、そしてその歴史を背負えぬ程度の覚悟では王龍寺を名乗ることなど……」
「はじまるぞ」

 出雲の発言はジジイによって遮られた。

「……ま、見せてもらうわい」

「開始めいっ!」


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夢ノ宮奇譚は架空の物語であり、そこに出てくる人名、組織、その他は実在するものとは一切関係ありません。

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