目の前の男が、自分の正体を図りきっていないことを、老人は明確に分かっていた。そして、そのことに彼が戸惑っていることも、よく分かった。
(ま、そうでなくては一回戦、あんなことをした意味もないしのお)
少し、余計な思考もでてくる。もしあの時、自分がまともにあの若造……臥龍とかいう奴と戦っていたら、自分は今ここにいただろうか。その答えはYESかもしれないし、NOかもしれない。いずれにせよ、どうでもいいことである。IFは所詮、IFでしかない。
それよりも、今、眼前にいる相手についてである。その彼がこの次、何をするつもりなのか、老人には分かっていた。
(むちゃくちゃ面倒なことを……しかも成功する算段なんか、あるのかのお)
たぶん成功はしない。だが、実行させるわけには、いかない。
仮に、彼の試みがうまくいったとしても、おそらく勝利は自分のものだろう。だが、それにより、老人が今まで保ってきた優位性……すなわち、情報量の絶対的な不足。これがなくなるかもしれない。
知られぬことは最大の強みである。それがあったからこそ、自分はあの臥龍郭斗に完勝した……いや、勝ちを拾うことが、できた。
その男。出雲が、構える。両手を前方に掲げ、左足を前に。
そして一気に大地を蹴ると、前方に飛んだ。右足を跳ね上げると、その足が覆面の側頭部に狙いを定めて弧を描く。教科書どおりのハイキック。
だが、さすがに大ぶりの攻撃であった。ガードすべく覆面が腕を上げる。そのまま、蹴り足が最高速に達する前に止める。あるいは、うまいことキャッチして、相手を地に倒す……
はずであった。止まる直前、出雲の下腿部、膝関節より先が、さらに上がったのだ。それは、ガードする腕を飛び越え、今度こそ老人の頭を蹴りぬこうとする。
済んでのところで、必殺の一撃をジジイが回避する。
「土佐ちゃん……今のって」
「……ブラジリアンキックって、奴ですね。」
観客席に戻っていた土佐と山口が、つい先刻、同じ席に座ってみていた技。出雲が戦った、あの空手家が、一番最後に使った技にほかならない。
「出雲ちゃんはいつの間に、あんな蹴りを覚えたんだ?」
山口の疑問は当然である。彼とは付き合いの長い山口であるが、出雲があんな空手の技、しかも日本人があまりやらないような技を使うところなど、見たことがない。
その出雲は、縦蹴りをかわされた後もさらに猛攻を続けていた。
ローキックのラッシュ。的確にガードはされているものの、構わず打ち続ける。そしてボディを狙ったミドル。顔面を狙って突き。
いまのところ、有効打らしきものはない。だが、老人の肉体では、ガードの上からでも多大なダメージがあることだろう。
老人の持つ技術が何なのかは誰も知らない。だが、おそらく柔道あたりだろうか。ならば組み技ではなく、打撃で攻め勝つ。出雲はそう判断したのだろうか。
そのため、本来はあまり使用しない、空手の打撃を多様しているのである。そしてそれは今のところ功を奏している。出雲の猛攻に覆面は全く、手出しができない。観客はおそらく、そう思っていたことであろう。
そうでないことを、出雲とジジイのみが理解していた。
おそらく自分の意図を、この目の前の老人は理解しているのだろう。そして、その気になればすぐにでも、攻撃を止めることもできる。
それを、あえて守勢に回っている。そのことが、出雲にはよく、分かっていた。
だが、あえてそのことに疑問をさしはさむことは、やめにした。今はただ、目の前の男を超えることで、必死だったのである。
「……なんてこった」
土佐は思わず、声をあげた。
「もしこれが本当だとしたら……」
彼の眼前で、一方的に守勢に回っている、覆面の男は、このことが自分にとってデメリットでしかないことを知っている。
その上で、あえてやらせているのだろう。
(相当に、人がいいですよ、爺ちゃん……)