控え室の扉が、ゆっくりと開かれた。そこに現れる、銀髪の男。
「先生……」
その姿を見た少年が、今にも消え入りそうな声で男を呼ぶ。
「すいません……」
少年が深々と頭を下げる。男は、微笑みを崩さず部屋へ入り込む。
扉は、開け放たれたままだ。
「俺に謝るモンじゃない……」
男の唇が、苦笑の形に動いた。だが、瞳は笑っていない。
「お前は今回、一つの教訓と、一つの報酬を得た……」
少年は、驚いた様に男を見やる。
「戦いを楽しむ心と、その喜びに身を任せ、我を忘れてしまう事だ」
責める様な、笑うような……言うなれば、他愛ない子供の悪戯を叱る親の様な口調だ。
「アウトボクシングに徹すれば、勝てたかもしれない。運悪く捕まって負けたかもしれない」
少年は目を伏せ、喉の奥で師の言葉を反芻する。
「今日のは、ボクシングじゃありませんでした」
噛みしめるように少年が呟く。
「あぁ。ありゃあ只の喧嘩だ」
あっさりと、叩きつける様に返す男。
少年の唇が噛みしめられる。
「喧嘩とボクシングに必要な物は、全くと言って良い程差がある」
少年の様子を意に介した風もなく、男は続ける。
「ボクシングに必要なのは、技術と、それに裏付けられたパンチ力だ。だが、喧嘩に必要なのは、何よりも……」
ここで一旦、男は口を止め、少年の様子を見やる。相変わらず俯いたままだ。
男は口元を綻ばせる。この時の少年は、男の言葉を注意深く聞き取り、その全てを物にするからだ。一見すると外の言葉が耳に入らない様な様子だが、少年がスポンジのような吸収力を発揮する時の癖なのだと、男は解釈している。
「何者にも負けない、度胸だ。だが、これが戦闘に変わると、また少し違ってくる」
アマチュアとは思えないほどの殴り合いの後だと言うのに、これではまるで説教か授業である。普通は休ませる方が先決のはずだ。だが、男は目的のためにそれをしない。少年は、休もうにも心が休ませてくれない。
「1に守備力、2に攻撃力、3に胆力だ。戦闘では、勝利する事よりも生き延びる事が重要となり、そのために先手が必要になり、最後に引き際と攻め際をわきまえ、動く度胸と臆病さが必要になる」
ボクシングの講義ではない。男の目的はハッキリしていた。そして少年も、その言葉を待っていた。
「お前がこの先、必要な技術は何だ?」
唐突な問いかけ、しかし、少年は当然の様にそれを聞き取り、頭を上げる。
「今のお前に、俺が教えられることはもう無い。だがもし、お前に必要な技術があり、それを俺から奪う必要があるのなら……」
男は立ち上がり、ドアを目指す。
「先生はいつも、最後は僕に選ばせますね……」
その言葉で男は立ち止まる。後数歩前へ出れば、そこは控え室から廊下へと変わるはずである。
「けれど、いつもその答えは決まっていて、僕がどう答えるかを、先生は知っている……」
少年は、男の背中を睨めつける。男は再び歩を進め、控え室を出ていく。
「けれど逢えて、先生は僕に選ばせる。これも授業の一環ですか?」
少年は立ち上がり、男の後を追って、戦場へと……