Diary


 

 「クシュ」

 不意のクシャミで、慌てて正気に戻る。
(もう、夏服で夜を過ごすのは無謀な季節だな)
 裏街道に面する、あまり高くないビルの屋上。ここに張り込んで、もう三日になる。
 僕が狙っているのは、このビルと道を挟んだ向かい側にあるアパートの一室。そこは、ある大物政治家の愛人にあてがわれた部屋だ。
 僕がこれまでに掴んだ情報によると、週に二度程このアパートに足を運ぶらしい。その現場を納めることが出来れば良い金になる。だが、その時の相手の表情を思い浮かべると、僕は憂鬱な気分になった。しかし、仕事は仕事である。一度決めた被写体を撮り逃す等、プライドが許さない。
(これが終わったら森へ行こう)
 元来僕は、人間よりも森や動物の写真を取るのが好きだった。出来れば風景写真等で食べていきたいが、現実はそう甘くはない。
 山登りで鍛えた肉体と、一瞬の生命の躍動を映し出すまでの忍耐力を買われて、僕はこういう仕事をやっている。
 他人の私生活を暴き、面白おかしく書き立てる品の無い仕事。ゴシップ誌の記者兼カメラマン。それこそが、今の僕の仕事だ。
(来た!!)
 安アパートに似つかわしくない、やたら高価な車がアパートの前に停まるのを見て、僕は慌ててファインダーを覗き込む。
(あれ?ズレてる)
 どうやら、さっきのクシャミの拍子でカメラが動いてしまったらしい。今写っているのは、あの部屋に住むやたら香水臭そうな女性ではなく、ハイティーンらしき少女だった。
(でも、綺麗な娘だな……)
 僕は思わず、その少女の面差しに目を奪われた。
 背にたたえられた白く豊かな髪、透き通るような肌、やや幼さを残す顔立ち。そして、最上級の宝石をはめ込んだような瞳。
 僕なら迷わず、ターゲットの女性ではなく、こちらの少女を選ぶだろう。無意識にシャッターを落としてしまう。その音で僕は正気に返る。
(おっと、仕事仕事……)
 慌ててファインダーをターゲットに向ける。丁度窓際で熱い抱擁を交わしている所だ。政治家はもう五十近いはずだが、元気な物だ……
 抱擁から続く接吻、愛撫、そして性交。それら全てを写真に納める。
 機械的な連続音の中、僕の中のフィルムには、先程の少女が焼き付いていた。いや正確には、少女の澄んだ瞳が焼き付いて離れなかった。

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 僕が撮った写真は一大スキャンダルとなり、当分の間食べていけるだけの金が手に入った。これでまたしばらく、自分の好きな写真に没頭することが出来る。
 山にでも登ろうと思っていたので、その間の必要物資を買い込みに、僕はドラッグストアへ出かけていた。
「20.80$になります」
 財布を取り出そうと、ポケットに手を入れる。
(………ン?)
 僕は指先に違和感を感じ、財布ごとそれを引っぱり出す。引っぱり出した物を見る前に、会計を済ませ、店を出る。
「これは……」
 僕の指先に触れた物、それは、数日前の少女の写真だった。記事にならない写真なので、渡さずにポケットに突っ込んでいたのだ。
 荷物を抱えたまま、何気なくその写真を見直す。その瞳は、宝石をはめ込んだように美しく、虚ろだった。
 瞳に感じた透明感は、透き通っているのはなく、それとなく感じさせる空虚さがもたらす物だったのだ。
(この娘は何者だろう?)
 帰り道にも、そんな思考が頭を離れない。
(まさか一目惚れ?………まさかね)
 自嘲的な笑みが漏れる。が、僕は思わず足を止めてしまった。
「ここは……」
 そこは、例の少女の居たアパートだった。この道を通ってでも自分の部屋へ戻ることが出来る。しかし、あまり治安の良い通りでは無いので、普段は通らない道だったのだが……
「僕は何をやってるんだ……!?」
 呆れた呟きを漏らしながら家路を急ごうとした時、声が聞こえた。
 正確な意味での声では無かった。人間かどうかも解らない。しかし、その『声』は確実に、助けを求めていた。
 止せば良いのに、そちらへ向かってしまう。より治安の悪い方へと道を進み、そこへたどり着く。
「なんだ、これは?」
 そこで僕が見たのは、地面に倒れ伏している複数の男達と、白髪の少女。そう、あの時の少女だった。
 男達の風体からして、路地裏に回り込んだ少女に悪戯をしようとしたのだろう。
(しかし……)
 何故、この男達は倒れているのだろう?
 その疑問の答えを出す暇は無かった。男達が、微かに動いたのだ。同時に、後方から聞こえてくる声。
 僕は、少女を抱えてその場を走り去っていた。

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「はぁ〜、一体何やってんだろ?」
 椅子に座りながら、ぼやく。
 少女はよく眠っていた。僕のベッドで。
 そう、ここは僕のマンションの寝室。慌てて、自分の部屋へ連れて帰ってしまったのだ。
 少女を見た部屋へ連れていくのは、少女が目を醒ました後に保留された。
「ホントに僕、何やってんだろうなぁ〜〜」
 何度目の溜息か、もう数えるのが嫌になっていた頃、少女が呻いた。
「う、ン……」
 僕は、慌てて少女に注目する。
(しまった……何て言えば良いのか解らない)
 何を言えば良いのか解らないまま、僕は少女の反応を待った。
 少女は起きあがり、ゆっくりと髪を掻き上げる。
 その瞬間の僕の感情を、何と表現すれば良いのだろう?
 少女が見せた、意外なほど幼い表情、服越しにも見て取れる均整の取れた細身の肉体。その姿は、この年頃の少女にのみ可能な、アンバランスな美しさを醸し出していた。
「あの……」
 よほど滑稽な表情をしていたのだろう、少女は怪訝な表情で僕に尋ねてきた。僕は慌てて少女が聞いてきそうな事を頭の中でシュミレートする。
(ここ、何処ですか?)
(貴方は誰ですか?)
(一体、何が起こってるんですか?)
「私、誰ですか?」
「ハァ?」
 予想外の問いに、僕は先程より遥かに間の抜けた表情をしていた。

「なる程ね。まぁ、ようするに自分が目を醒ます前の事は何も覚えてない……と?」
 少女と自分にココアを入れ、ココアと共に少女の言葉を呑み込んでいく。
 少女は、頷くことで肯定の意を示した。
「まぁ、記憶に関しては、今度知り合いに精神科医がいるから、その人に見て貰おう」
 さすがに、保険証も無しに医者に連れていく訳にも行かず、唯一無償で見て貰えそうな人の事を思い浮かべる。
「とりあえず、もう夜も遅いし、今夜はゆっくり寝ると良い」
 この年頃の少女でなくとも、この街の夜は危険だ。良識ある人間なら、決して出歩かない。
 僕は伊達眼鏡を外し、部屋を出ていこうとする。
「あ、あの……」
 少女が遠慮がちの声をかけてくる。
「あぁ、そのベッドで寝れば良いよ。僕はソファで寝るから」
 確か、毛布なら数枚余分にあったはずだ。
「いえ、そうじゃなくて……」
「何?」
 不安そうな少女に、穏やかな笑顔を向ける。
「あの、その……」
 少女は顔を赤らめる。僕はその意図が理解できずに、返事を待つ。
「あの……トイレは何処に?」
 少女は俯き、真っ赤になってしまった。
「ゴメン。この部屋出てすぐ右だから」
 何故、僕まで赤くなるのだろう?

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 どのくらい眠っていただろう?
 僕は、奇妙な寒さに目を醒ました。
 初めは毛布を投げ出してしまったのかと思ったが、そうではなかった。
 目を醒ました所に、少女が居たのだ。
 僕の目覚めきっていない脳は、一瞬でパニック状態になる。危うく声を上げる所だった。
 少女は、既に眠っていた。おそらく、トイレに出た時にでも寝ぼけて、僕の布団に潜り込んだのだろう。
(参ったな……)
 少女をベッドへ連れていこうと、起きあがろうとする。
 しかし、その行動は少女の手によって阻まれた。服をしっかりと掴まれて居たのだ。
「行かないで……」
 おそらくは寝言だろう。少女は泣いていた。
 僕は身動きがとれず、そのまま少女を抱いて眠る事となった。
 少女の躰は、森の匂いがした。

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 朝の光が、僕の瞳を刺す。柔らかい香りが、僕の鼻を突いた。
(そっか、ソファーで寝たんだっけ……)
 少しずつ、昨日の出来事を思い出す。そして、深夜に起こった事も……
(……あの娘は!?)
 慌てて毛布を捲るが、少女の姿は無い。
 何処へ行ってしまったのだろう?
(ひょっとして、ベッドに戻ったのかな?)
 そう思い、寝室へ足を運ぶ。扉を開けようとして、手を止める。
 年頃の少女の寝姿など、見るものでは無い。息を凝らし、気配を探る。
「あ、お目覚めだったんですか?」
 背後から声をかけられて、心臓が一瞬停止しそうになる。
 飛び退くように振り返ると、そこに少女が立っていた。料理用のエプロンをして。
 僕は料理をする時に、エプロンはしない。あれは、前の恋人が置いていった物だ。裾に、その娘のイニシャルが刺繍されている。
「スイマセン。勝手にお借りしちゃって……あ、でも、朝御飯、作りましたんで……」
 少女が頭を下げる。この香りの正体は、どうやら朝食らしい。
「いや、良いよ。どうせ近い内に処分するつもりの物だったしね」
「え?」
 少女が、聞き返してくる。
「それ、僕のじゃ無いんだ……」
 それだけで少女はなんとなく察したのだろう。「そうですか」と曖昧な返事を返すと、鍋の様子を見に戻っていった。

「名前……ですか?」
 何杯目かの味噌汁をよそいながら、少女は聞き返す。
「そう。君の名前。いつまでも『君』とかじゃ呼びにくいだろ? それに、名前も言えない若い男女が一つ屋根の下ってのも問題があるし。記憶が戻るまでの、仮の名前で良いんだけど……」
 これまでの会話で、少女の記憶が戻るまで、このアパートに住んでも良いと言うことになっていた。僕個人は、水龍院先生の所にでも世話になろうと思って居たのだが、少女は断固拒否した。正確に言えば、少女がこのアパートに残りたがったのだ。
 幸か不幸か、部屋は余っていた。それに理屈を考えれば、食事を作ってくれる人間がいるのはありがたい。男の一人暮らしで作れる食事など、たかが知れていたから。
「私の名前……」
 少女は、僕の前に茶碗を置きながら、考えるような仕草をする。
 割と大人っぽい雰囲気の少女にしては、妙に幼さ気な仕草だ。
 少女は唐突に頭を上げると、僕の方へ向き直る。
「純さんが……決めて下さい」
 結局、決定権は僕に委ねられる事になった。
「そうだな。君の名前は……」

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 青年は、ノートを閉じる。ありふれた大学ノートだ。
 ゆっくりと椅子に身を預け、息を吐く。
「純さぁん、ご飯出来ましたよぉ〜」
「あぁ、今行く」
 青年は立ち上がり、書斎を出ていく。
「この匂い。今日はステーキか」
「もぅ、何でも匂いで解っちゃうんですから」
「うん。どうやら今回はちゃんとレアに焼けてるみたいだね」
「今回はってなんですかぁ!?」
「レアが良いって言ってるのに、いつもウェルダンにしちゃうんだもんなぁ、洸は……」
「ソーですか、じゃあ、純さんは今度から生で出しますね。狼さんならそっちの方が良いでしょ?」
「あ、ゴメンゴメン。悪かったよ。いくら何でも生ってのは……」
 青年が後にした机の周りには、写真が大量に置かれている。その中で、亜熱帯植物を撮った物が、コトリとノートの上に落ちた。
 ノートの表紙には『Diary』と、記されていた。

fin


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