「あの時……なんだろうね。あるいは、あの時に気付くべきだったのかもしれない……いや、それは、今から考えれば、って奴で、やっぱりあの時には無理だったのかも。ごまかしかな?」
(土佐遼)
部活では新人戦をやっているといえど、日常においてはいつもと同じ時間が流れている。
いつもと同じように学校に行き、授業に出て、部活に出て、家へと帰る。
そんな日々のささいな隙間に、忍び込んでくる、いわば「異物」。
人はそれを、事件(アクシデント)と呼ぶ。
健斗の場合、それは「高級(たか)そうな車に乗った、背広の男」という形をとって現れた。
「臥龍健斗君だね?」
明らかに怪しい。
急いでいることを言い訳に、早々に立ち去ろうとする健斗。
「強くなりたくはないかい?」
男の何気ない一言に、彼の足が止まる。
「そう……例えば、君が昨日闘った、高天大和よりも」
「……」
健斗の頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
この男は自分のことを知っている。しかも、かなり調査しているらしい。
そして、このようなことを持ち掛けてくる。明らかに、よからぬ予感がする。
逃げた方がいい。
が。
「そう、心配しなくてもいい……自分の気持ちに正直になれば。それだけでいいんだ……」
男は健斗の目を覗き込み、そして……
Trrrrr……Trrrrr……
ガチャ。
「はい、土佐ですけど……ああ、郭斗くんか。どうしました?」
「……健斗、おじゃましてません?」
「いや、来てないけど……健斗くんが、どうかしたのかい?」
最近、健斗の帰りが遅いというのである。
これまでは部活が終わって、家にまっすぐ帰らないことの方がはるかに少なかった彼が、門限ギリギリまで帰ってこない。そんな日が、もう数日続いているというのだ。
レスリングの新人戦以来だという。
「で、もしかしたら、土佐さんとこにいるんじゃないかと……」
「ま、たまに見てあげてるけどね。でも、最近は見てないよ?」
「ですか……」
もともと健斗に関しては放任の姿勢をとっていた郭斗である。こういうことで電話をかけることは非常に珍しい。
「本人には聞いてみたのかい?」
「一回だけ。本屋とかゲーセンで寄り道してきたって。」
「そか……」
よくある言い訳である。しかも、よくあるケースである。これ以上追求しようもない。
「ま……私も、一応、知り合いのところ、あたってみますよ」
「……お願いします……」
結局、健斗の行方はつかめぬままに、数日後の、柔道新人戦を迎えることになる……